絶対矛盾的自己同一

 人間には確かに絶対的な自己中心性というものがある。その自己中心性はどこから来たものか?

 人間が原因的存在ではなく、結果的存在ならばその「自己中心性」は明らかに人間の創造者である神に由来する。

 神は人間を創造する以前まで絶対的な自己中心性を持っていたが、人間を創造することによって完全に自己を否定するという過程を経ている。独自で存在しているという絶対的な自己中心性を捨てて、人間という存在を生み出したからだ。

 私たち人間も「自己中心性」のみを中心としては人や社会との関わりの中で生活することができない。何かしらの自己否定の過程を通して周囲との関係性を築いているのである。

 そういう面で「私」という意識は「私」という存在のみでは規定できないことに気づく。周囲との関係性を通して「私」がはじめて規定されるのである。「私」が「私」を意識し、「私」を規定しようとしても、自己を客観的に正確に判断することができないのは人間が悩みや苦悩に陥る時によく見られる現象である。

 もし、世界に「私」一人しか存在しなかったら、「私」という概念さえも獲得することはできない。だからこそ、逆説的に見れば私という存在は「私」を否定してこそ、より本質的に理解できるのである。

 だから宗教が「私」を否定するということを勧めて来たという流れは必然である。それは神が経てきた過程を人間が辿る道だからだ。

 ここから人間が幸福に生きる第一の関門というものが見えてくる。

 

神は絶対者であるがゆえに

神は絶対者であるがゆえに私が相対的な立場にあるときには姿を表さない。

ゆえに、私が絶対的に自己をなくした時にその姿を表される。

私が強くなれば、神は遠ざかり、私が小さくなれば神は近くなる。

神が絶対者として存在できる理由は絶対的に自己を否定しているからである。

 

西田幾多郎哲学論集〈2〉論理と生命 他4篇 (岩波文庫)

西田幾多郎哲学論集〈2〉論理と生命 他4篇 (岩波文庫)

 

 

 

目は目自身を見ることができない

目は言うまでもなく見る為のものである。

しかし、もし目が目自身を見ようとしたら目は外界を見ることができなくなる。

したがって目は目自身を見ないが故に外界を見ることができると言える。

同様に、「私」が「私」を見ようとすると「私」がわからなくなり、「私」を見ることをやめると自然と「私」が見えてくる。

即非の論理から言うと目は目ではない、故に目である。

私は私でない、故に私であるとなる。

 

霊性が働きかけてくる

 知性の内に向かふ働き、これを知性の内面的論理と云っておけば、この論理は情意的に一つの要請として感ぜられる。多くの場合では、精神の悩みとしての一般の人々に知られている。知性の外向的働きの目覚ましさに眩惑されて、その外に何等の要請を感ぜぬ人、即ち哲学せぬ人、こんな人々に向かって如何に哲学を説いても、河童に水である。また所謂る精神の悩みを覚えぬ人々、即ち宗教意識の持ち上がらぬ人々に向かって、罪悪だの、地獄・極楽だの、永遠の生命だの、解脱だの、證覚だのと云ったとて、これまた馬耳に東風だ。何らの交渉のきっかけがない。縁なき衆生には外から救いの手のつけやうがない。知性に内向的なもののあることは、或いは知性自身からではわからぬものなのであろうか。ここに霊性なるものの働きが出なければならぬのである。霊性に刺激せられて、知性は始めて自らを反省して、内に向かふ力を働かすと云はなければならぬのだろうか。

            「鈴木大拙全集6巻」82pより

 

 霊性が働きかけると云う面白い表現だと思う。

 ある時期になり、普段何も考えて生活をしていなかった人に突然、霊性が働きかける時期がある。すると、今までの人生的価値観が全て夢幻のような、何か満たされない、不安定さが出てくる。その結果、実存的な問いが表れ、「私とは何なのか」、「生きる意味とは何なのか」などの疑問が我知らずに沸き起こってくる。

 この時こそが、本当の意味で、今までの相対的、分別の世界、業の世界と云う色眼鏡が離れ、絶対安心の霊性的世界があると云うことを体験できる時なのだ。だから、苦しみや悩みには必ず意味があって、決して悪いものでもないのである。元来、偉大な人物の中で、苦しみを経験しなかったものがいなかったと云うのはこの理由だ。

 つまり、「一度生まれ」の人と「二度生まれ」の人の間にはその霊性的な深さに決定的な差異が出るのは当然である。ただし、二度生まれになるためには必ず、一度死なないといけないのである。もちろん死ぬとは肉体が死ぬのではなくて、固執してきた我執に気付き、それを葬り去ってから、新しく生まれると云うことである。

 

浄土系思想論 (岩波文庫)

浄土系思想論 (岩波文庫)

 

 

 

 

  

純な心

「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合せて見る 此れ純なる心也」

                           森田正馬

 

 誤ってお皿を割ってしまい、「ああ割ってしまった!」と無意識につくはずもない半分のお皿をつなぎ合わせてみるその混じり気のない行動に森田先生は「純な心」をみた。

 そのあとに「どうやったら言い訳ができるだろうか」とか、「誰かに見られていないか」などと理性を使うとなるとそれはもう「純な心」ではない。

 喜び、不安、怒り、悲しみ、疑問などなど人間には様々な感情があるが、まずその感情が出てくる初一念は「純な心」である。それを、「そう思ってはみっともない」とか、「情けない」とか思い、純な心を知性で征服しようとするときに、初一念、つまり「あるがまま」は「あるがまま」ではなくなってしまう。

 この「純な心」は西田幾多郎の「純粋経験」と同じだろう。

 

森田正馬が語る森田療法―「純な心」で生きる

森田正馬が語る森田療法―「純な心」で生きる