仏教の大意① 鈴木大拙

  仏教の大意は昭和21年4月23日〜24日にわたって天皇皇后両陛下のために大拙が講演したものを基礎にして起稿された。第一講『大智』では大拙の思想全般にわたって展開されている、無分別、無差別を中心とした霊性的直感、霊性的世界観に関して説明を加えている。結局、ここで述べられている内容こそが、大拙の伝えたい内容の核心であり、他書の中でも、根本的な基礎となる大拙の思想は無分別の重要性についてである。

 それにしても普段、一般的社会生活を営む人々にとってはいきなりこの内容を見ても理解することが不可能であると思う。ここでも述べられているように「霊性的世界が感性的世界に割り込む」などの表現は本当にこのような感覚を覚えた人でないときっと何が何だかさっぱりなはずだ。私たち人間は自分が普段、見て、感じている世界に何の疑問も抱かない。しかし、ある出来事をきっかけに(大きな出来事に直面するとか、もしくはこころを病むとか)自分やこの世界について疑いを抱くようになる。そうなると人は言い知れぬ不安感、すっきりしなさ、苦しさに襲われることになる。

 しかし、そのような状況に追い込まれた時に大切なことは自分の頭を使いながら世界を再構成するのではなく、無分別を通して世界をありのままに見ることである。そうすることによって今まで私が見ていた世界というものが普段、我々の自意識によって再構成されたフィルターを通した世界であって、それそのまま、あるがままの世界でなかったということに気づくようになる。その段階まで言ってこそ、ここで大拙が言う無分別という世界、霊性的世界というものがどういうものか理解できるようになるのである。

 

鈴木大拙全集7巻7p-9pの一部引用

普通吾等の生活で気のつかぬことがあります。それは吾等の世界は一つではなくて、二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということです。二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊性の世界です。これら二つの世界の存在に気がついた人でも、実存の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的な世界は非実存で、観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主義者の頭の中にだけあるものときめているのです。

しかし、宗教的立場から見ますと、この霊性的な世界ほど実存性を持ったものはないのです。それは感性的世界のに比すべきもないのです。一般には感性世界をもって具体的だと考えていますが、事実はそうでなくて、それは吾等の頭で再構成したものです。霊性的直覚の対象となるものではありません。感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、”何となく物足らぬ、”不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。何だか物でもなくしたような気がしてそれの見つかるまではさまざまな形で悩みぬくのです。即ち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです。

このようにして、霊性的世界を実際に把握するときー或いはこういってもよい、霊性的世界が実際にこの吾等の感性的世界へ割り込ん来とき、日常一般の経験体系が全く逆になるのです。実が非実になり、真が非真になる、橋は流れて水は流れず、花は紅ならず、柳は緑ならずということになります。

 

仏教の大意

仏教の大意