霊性と宗教意識

  宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏に悩むときみずからの霊性に触着する時節があると対立相克の悶えは自然に融消し去るのである。これを本当の意味での宗教という。一般に解している宗教は、制度化したもので個人宗教経験を土台にしてその上に集団意識的工作を加えたものである。宗教的意識、宗教的儀礼、宗教的秩序、宗教的情念の表象などというものがあってもそれらは必ずしも宗教経験のそれ自体ではない。

                                                                「鈴木大拙全集8巻 日本的霊性」24p

 

宗教団体に所属しているからといって霊性的経験をしていると勘違いしてはならない。

そこに所属していると何か安心するからとか、利益があるとか案外そういう人が多いものである。

教祖の体験は教祖個人のものであり、それを文章化した経典は体験という文字で表現できないものを文字で表したものにすぎない。

人間の持つ苦しみを七転八倒しながら超越した中からのみ、真実の霊性の経験が生まれる。

 

 

理想と事実

 誰でもできるなら聖人君子のようになりたい。それが理想である。しかし、現実を見てみれば仕事をすれば怠けたくなるし、お金も欲しい、そして時には人を憎むこともある。これが事実である。

 

 私が考える純粋な心とはそのような煩悩をまずもって事実として認めることだと思う。理想を持って、それをあってはならぬという時にそれは事実を捻じ曲げる嘘の思想となる。そして煩悩を事実と認めつつ、淡々と生活する。これが本当の正直者だと思う。

 いわゆる聖職者と言われる人たちに問題が生じることが多いというのは理想主義に走って、事実を事実として認めようとしないところにある。

 

初一念を大切にする

 人間の心の中は誰でも初一念と二念の対話によって成り立っている。初一念とは無意識からやってきて、二念は自我を中心としている。この二念の中に分別が働いているのである。心を病む人の陥ってるパターンが初一念で湧き出してくる思いを二念で打ち消し、思考を挟んでしまう。

 例えば、何か不安な気持ちが湧いてくる。または憂鬱な気持ちが湧いてきたり、怒りが湧いてきたり、寂しさが湧いてくるかもしれない。これは初一念として純粋な無意識からくる自然な働きだ。

 しかし、次の二念でその一念を自分の理性を使って操作してしまう。そうするとどんどんどんどん思考の終わらない分別が始まってしまう。頭を使ってなんとかその感情の原因を探ったり、答えを出そうとする。

 一度答えを出して安心するも、しばらくすると同じことを繰り返してしまう。どこで間違ったのか。それは初一念の思いを素直に受け止めなかったからだ。どんなに不都合な思いが出てきたとしてもそれをそのまま操作せずにじっくり味わっていると、なぜかそこから不快感がなくなってきて、自然と求めていた答えが出てくるから不思議である。

よく認知を変えるというが、それは考えを知識の力で変化させることで余計に思考が絡まってしまう。それよりも初一念を大切にすることが重要だ。

 

神と我

「我々の自己はどこまでも唯一的に、意志的自己として、逆対応的に、外にどこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するとともに、内にもまた逆対応的に、どこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するのである。前者の方向においては、絶対者の自己表現として、我々の自己は絶対的命令に接する、我々はどこまでも自己自身を否定してこれに従うのほかはない。これに従うものは生き、これに背くものは永遠の火に投ぜられる。後者の方向においては、これに反し、絶対者はどこまでも我々の自己を包むものであるのである、どこまでも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、どこまでも追い、これを包むものであるのである、即ち無限の慈悲であるのである。私はここでも、我々の自己が唯一的個的に、意志的自己として絶対者に対するという。何となれば愛というものも、どこまでも相対する人格と人格との矛盾的自己同一的関係でなければならない。どこまでも自己自身に反するものを包むのが絶対の愛である。どこまでも自己矛盾的存在たる意志的自己は、自己成立の根底において、矛盾的自己同一的に自己を成立せしめるものに撞着(どうちゃく)するのである。そこに我々の自己は自己自身を包む絶対の愛に接せなければならない。
 単なる意志的対立から人格的自己が成立するのではない。この故に如何なる宗教においても、何らかの意味において神は愛であるのである。」

                        「西田幾多郎全集11-434」

 

人間という存在の中には神が内在している。例えば、良心の働きを見てもそれがわかる。その働きが正しければ心は安楽であり、間違っていればどこまでも苦しい。自己というものの考えを中心として思考が展開すれば苦しみがあり、我を滅して神の意図に沿っていく時に喜びが展開する。自己の中には自我を中心とした私とそして、神が内在している。これを西田は絶対矛盾的自己同一とした。したがって神は外にいるのではなく、常に私と共にあり、片時も離れることを知らずに私を導いているのである。

正負の法則

 美輪明宏さんがよく語られる人生論の中に正負の法則というものがある。これは例えば運が良いことが続けば、その分悪いことが起き、悪いことが起きればその分、運は溜まっているということだ。

 最近ではある有名芸能人の方が若くしてガンに冒され、闘病生活を送っているブログを拝見した。有名な歌舞伎役者と結婚し、本人も若くて美しく二人の間には子供にも恵まれた。まさに順風満帆なその時に突然の不幸である。

 よく経営者として順調に成功しだすと突然と家族に不幸が襲うということもよくある話だ。何かを得るためには人間はそれ相応の条件が必要となるのだ。

 だから普段から運のいい時も悪い時も他のために自分の持っているものを与えて先払いしておくことが大切だ。こうすることで、どんなに運を使い果たしてもマイナスになることは避けられるからだ。しかし、幸福な時にはそんなことを一切忘れてしまうのが人間の悲しい性である。

陽と陰

 人間誰しもいつも明るく輝いていたい。そして、確かにそんな時期もある。仕事、健康、経済、全てがうまくいくときである。こんな時は何も考えずに単純に幸せを謳歌することができる。しかし、突然に思いもよらない出来事が忍び寄る。例えば、病気、家庭の問題、経済的問題によって今まで築いてきたものが壊れていってしまう。

 しかし、よく考えてみると全ての物事がプラスに働いていた時には、今まで手にしていたものの本当のありがたみがわからないのであり、マイナスに失ってはじめてその価値がわかるのである。健康な時には健康のありがたみがわからず、豊かな時には豊かさがどれほど感謝なものなのかわからないのが人間だ。こうしたことを理解させるために自然は摂理の中で巡っていく。陽の力を伸ばすために陰の時期を、陰の時期を越えるために陽の時期を。全てが中和され、バランスよく循環するようになっている。

 結局、一番ふさわしい時期にその人その人が成長のために与えられる課題というものが一生の中で巡ってくるわけである。こう考えると人生の瞬間、瞬間に無駄な時期は一つもないことがわかる。

時期を待つ

何事もうまくいかぬ時節が確かに人間にはある。仕事、健康、家族など様々な問題が降りかかって身動きできない時である。1年の中に春夏秋冬があるように人間にも冬のような実りの少ない時期がある。そう言う時はただじっとして春の訪れを待つべきだ。冬に時期に種をまいても何も実らない。ただいずれ力強く開花していく春のために力を蓄える時だ。