霊性と宗教意識

宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏に悩むときみずからの霊性に触着する時節があると対立相克の悶えは自然に融消し去るのである。これを本当の意味での宗教という。一般に解している宗教は、制度化したもので個人宗教経験…

理想と事実

誰でもできるなら聖人君子のようになりたい。それが理想である。しかし、現実を見てみれば仕事をすれば怠けたくなるし、お金も欲しい、そして時には人を憎むこともある。これが事実である。 私が考える純粋な心とはそのような煩悩をまずもって事実として認め…

初一念を大切にする

人間の心の中は誰でも初一念と二念の対話によって成り立っている。初一念とは無意識からやってきて、二念は自我を中心としている。この二念の中に分別が働いているのである。心を病む人の陥ってるパターンが初一念で湧き出してくる思いを二念で打ち消し、思…

神と我

「我々の自己はどこまでも唯一的に、意志的自己として、逆対応的に、外にどこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するとともに、内にもまた逆対応的に、どこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するのである。前者の方…

正負の法則

美輪明宏さんがよく語られる人生論の中に正負の法則というものがある。これは例えば運が良いことが続けば、その分悪いことが起き、悪いことが起きればその分、運は溜まっているということだ。 最近ではある有名芸能人の方が若くしてガンに冒され、闘病生活を…

陽と陰

人間誰しもいつも明るく輝いていたい。そして、確かにそんな時期もある。仕事、健康、経済、全てがうまくいくときである。こんな時は何も考えずに単純に幸せを謳歌することができる。しかし、突然に思いもよらない出来事が忍び寄る。例えば、病気、家庭の問…

時期を待つ

何事もうまくいかぬ時節が確かに人間にはある。仕事、健康、家族など様々な問題が降りかかって身動きできない時である。1年の中に春夏秋冬があるように人間にも冬のような実りの少ない時期がある。そう言う時はただじっとして春の訪れを待つべきだ。冬に時期…

特別無条件同化暗示感受習性

たいていの人はいろんな理屈を言うけれども、この消息をご存じない。人間の夜の寝際の心は『特別無条件同化暗示感受習性』という状態になっているのよ。つまり、無条件で同化しちまう暗示感受習性があるんです。ですから、夜の寝際にちょいとでも、それが嘘…

言葉を変える

太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 この言は太初に神とともに在り、 萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 「ヨハネ福音書」 確か、苫米地博士の書いた本にルータイスのアファメーションの基本はこのヨ…

考え方を変えるのではなくて・・・

考えは考えでしかないことを知ることが大切だ。思考は思考、現実は現実。知性で意味や答えを確定させたい欲求を我慢して、ただそのままの事実に任せるときに「私」を超えたところから勝手に答えがもよおされてくる。この境地が自然法爾、絶対他力の世界であ…

心は変えられない

悩みを持つ人が悩みから抜け出れなくなるときに陥っているのが、「こんなことで悩んでいる自分を変えたい」、「この心を変えたい」という思いだ。しかし、なかなか心は変わらない。むしろどんどんと深みにはまっていってしまう。 これは心というものが自分の…

知性の及ばない世界

丁度川の岸へ立って、水の流れを眺めて、不快だろうか、浅いだろうか、冷たいだろうか、熱いだろうかといろいろと想像をたくましうするのと同じことだ。宗教の世界ではさういうふことを妄想と云ふ。また情識と云ふ。加賀の世界、分別の世界ではそれもよから…

羅針盤

ある人が何か悪いことをしたという噂を耳にした時、われわれはよく、その人には両親が無いという。一体良心とはいかなるものか?良心とはすなわち、万人の内部に生きている唯一絶対の霊的存在の声である。 トルストイ『人生の道』62p 良心とはすなわち羅針…

久遠の今

思考の性質は過去、もしくは未来に向けられている。 過去はすでに過ぎ去った時間で在り、もうすでに取り返すことができない。 そして未来もまだやって来てもいない。人間は日々、まだ起きてもいない過去や未来に 縛られ、苦悩しながら生きている。 しかし、…

靴屋のマルチン

愛のある所に神は在り。 靴屋のマルチン

絶対矛盾的自己同一

人間には確かに絶対的な自己中心性というものがある。その自己中心性はどこから来たものか? 人間が原因的存在ではなく、結果的存在ならばその「自己中心性」は明らかに人間の創造者である神に由来する。 神は人間を創造する以前まで絶対的な自己中心性を持…

鈴木大拙博士インタビュー

1964年5月21日放送。 鈴木大拙 NHK婦人の時間 聞き手犬養道子

神は絶対者であるがゆえに

神は絶対者であるがゆえに私が相対的な立場にあるときには姿を表さない。 ゆえに、私が絶対的に自己をなくした時にその姿を表される。 私が強くなれば、神は遠ざかり、私が小さくなれば神は近くなる。 神が絶対者として存在できる理由は絶対的に自己を否定し…

目は目自身を見ることができない

目は言うまでもなく見る為のものである。 しかし、もし目が目自身を見ようとしたら目は外界を見ることができなくなる。 したがって目は目自身を見ないが故に外界を見ることができると言える。 同様に、「私」が「私」を見ようとすると「私」がわからなくなり…

霊性が働きかけてくる

知性の内に向かふ働き、これを知性の内面的論理と云っておけば、この論理は情意的に一つの要請として感ぜられる。多くの場合では、精神の悩みとしての一般の人々に知られている。知性の外向的働きの目覚ましさに眩惑されて、その外に何等の要請を感ぜぬ人、…

純な心

「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合せて見る 此れ純なる心也」 森田正馬 誤ってお皿を割ってしまい、「ああ割ってしまった!」と無意識につくはずもない半分のお皿をつなぎ合わせてみるその混じり気のない行動に森田先生は「純な心」をみた。 そのあとに「ど…

いつまで外に答えを求め続けるのか?

「赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入りす。未だ証拠せざる物は、看よ看よ」 ※赤肉団上とは人間の肉体のこと 「臨済録」 神を求めて教会に行き、仏を求めてお寺に通い、ありがたい教えを誰かに聞こうとする。いつまで外に答えを求め続…

そのままの世界と人間

斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。 イザヤ書10章15節より 外を見…

デカルト批判

私は彼が、「我思う、故に我あり」との結論を出した、その瞬間の時点において、西洋哲学の悲劇的出発点を見るのである。 虚偽のものを疑い抜いてみても、こう疑っている私の疑いを疑い捨てるわけにはゆかない。疑っている何者かは真実の存在と言わねばならな…

ユングの神経症体験

ユングの神経症体験 ユングは十二歳のころ、学校で数学、図画、体操の授業に挫折する日々を送っていた。そしてその年の初夏のある日、友人を待っていたところ、ある別の少年から突然突き飛ばされ、足を滑らし頭を打ってしまう。 その瞬間、ユングの脳裏には…

無分別の分別とは

分別を持って生きる時、全てにおいて真の分別ができない。 分別を持って生きるのをやめた時に本当の意味で真の分別ができる。 これが「無分別の分別」 無心ということ (角川ソフィア文庫) 作者: 鈴木大拙 出版社/メーカー: 角川学芸出版 発売日: 2007/09/22 …

不安を解消する方法

不安を解消する方法は不安な時には不安でいることだ。 不安なのに不安であってならないと頭でやりくりをすると更に不安になる。 不安は「不安そのもの」になった時に小さくなっていることに気づく。 悲しいときは、悲しみ、落ち込む時は落ち込み、喜ぶ時は喜…

なぜ悩むのか

その答えは簡単である。 自分という存在の内面を概念化して、そこに「こうなりたい」という理想の形を思い描くからだ。 しかし、あくまでそれは自分を自分の頭でイメージした概念でしかないから、つかみどころのない心の世界に翻弄され、自己不全感は更に強…

ヨブ記

「ヨブ記」38章より この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。 「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。 わたしが地の基をすえた時、どこにい…

「わからなさ」がわかること

人が何かを知ろうとする前に、 人が何かを求めようとする前に、 人が何かを為そうとする前に、神がなぜ人間をみすてたかを知れ。 人類は破局の真因を知らず、 人間復活の道を求めず、 人は為すべきことを知らずして、 ただ為すこと多きを誇る。 福岡正信 『…