神と我

「我々の自己はどこまでも唯一的に、意志的自己として、逆対応的に、外にどこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するとともに、内にもまた逆対応的に、どこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するのである。前者の方向においては、絶対者の自己表現として、我々の自己は絶対的命令に接する、我々はどこまでも自己自身を否定してこれに従うのほかはない。これに従うものは生き、これに背くものは永遠の火に投ぜられる。後者の方向においては、これに反し、絶対者はどこまでも我々の自己を包むものであるのである、どこまでも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、どこまでも追い、これを包むものであるのである、即ち無限の慈悲であるのである。私はここでも、我々の自己が唯一的個的に、意志的自己として絶対者に対するという。何となれば愛というものも、どこまでも相対する人格と人格との矛盾的自己同一的関係でなければならない。どこまでも自己自身に反するものを包むのが絶対の愛である。どこまでも自己矛盾的存在たる意志的自己は、自己成立の根底において、矛盾的自己同一的に自己を成立せしめるものに撞着(どうちゃく)するのである。そこに我々の自己は自己自身を包む絶対の愛に接せなければならない。
 単なる意志的対立から人格的自己が成立するのではない。この故に如何なる宗教においても、何らかの意味において神は愛であるのである。」

                        「西田幾多郎全集11-434」

 

人間という存在の中には神が内在している。例えば、良心の働きを見てもそれがわかる。その働きが正しければ心は安楽であり、間違っていればどこまでも苦しい。自己というものの考えを中心として思考が展開すれば苦しみがあり、我を滅して神の意図に沿っていく時に喜びが展開する。自己の中には自我を中心とした私とそして、神が内在している。これを西田は絶対矛盾的自己同一とした。したがって神は外にいるのではなく、常に私と共にあり、片時も離れることを知らずに私を導いているのである。