2016-10-01から1ヶ月間の記事一覧

靴屋のマルチン

愛のある所に神は在り。 靴屋のマルチン

絶対矛盾的自己同一

人間には確かに絶対的な自己中心性というものがある。その自己中心性はどこから来たものか? 人間が原因的存在ではなく、結果的存在ならばその「自己中心性」は明らかに人間の創造者である神に由来する。 神は人間を創造する以前まで絶対的な自己中心性を持…

鈴木大拙博士インタビュー

1964年5月21日放送。 鈴木大拙 NHK婦人の時間 聞き手犬養道子

神は絶対者であるがゆえに

神は絶対者であるがゆえに私が相対的な立場にあるときには姿を表さない。 ゆえに、私が絶対的に自己をなくした時にその姿を表される。 私が強くなれば、神は遠ざかり、私が小さくなれば神は近くなる。 神が絶対者として存在できる理由は絶対的に自己を否定し…

目は目自身を見ることができない

目は言うまでもなく見る為のものである。 しかし、もし目が目自身を見ようとしたら目は外界を見ることができなくなる。 したがって目は目自身を見ないが故に外界を見ることができると言える。 同様に、「私」が「私」を見ようとすると「私」がわからなくなり…

霊性が働きかけてくる

知性の内に向かふ働き、これを知性の内面的論理と云っておけば、この論理は情意的に一つの要請として感ぜられる。多くの場合では、精神の悩みとしての一般の人々に知られている。知性の外向的働きの目覚ましさに眩惑されて、その外に何等の要請を感ぜぬ人、…

純な心

「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合せて見る 此れ純なる心也」 森田正馬 誤ってお皿を割ってしまい、「ああ割ってしまった!」と無意識につくはずもない半分のお皿をつなぎ合わせてみるその混じり気のない行動に森田先生は「純な心」をみた。 そのあとに「ど…

いつまで外に答えを求め続けるのか?

「赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入りす。未だ証拠せざる物は、看よ看よ」 ※赤肉団上とは人間の肉体のこと 「臨済録」 神を求めて教会に行き、仏を求めてお寺に通い、ありがたい教えを誰かに聞こうとする。いつまで外に答えを求め続…

そのままの世界と人間

斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。 イザヤ書10章15節より 外を見…

デカルト批判

私は彼が、「我思う、故に我あり」との結論を出した、その瞬間の時点において、西洋哲学の悲劇的出発点を見るのである。 虚偽のものを疑い抜いてみても、こう疑っている私の疑いを疑い捨てるわけにはゆかない。疑っている何者かは真実の存在と言わねばならな…

ユングの神経症体験

ユングの神経症体験 ユングは十二歳のころ、学校で数学、図画、体操の授業に挫折する日々を送っていた。そしてその年の初夏のある日、友人を待っていたところ、ある別の少年から突然突き飛ばされ、足を滑らし頭を打ってしまう。 その瞬間、ユングの脳裏には…

無分別の分別とは

分別を持って生きる時、全てにおいて真の分別ができない。 分別を持って生きるのをやめた時に本当の意味で真の分別ができる。 これが「無分別の分別」 無心ということ (角川ソフィア文庫) 作者: 鈴木大拙 出版社/メーカー: 角川学芸出版 発売日: 2007/09/22 …

不安を解消する方法

不安を解消する方法は不安な時には不安でいることだ。 不安なのに不安であってならないと頭でやりくりをすると更に不安になる。 不安は「不安そのもの」になった時に小さくなっていることに気づく。 悲しいときは、悲しみ、落ち込む時は落ち込み、喜ぶ時は喜…

なぜ悩むのか

その答えは簡単である。 自分という存在の内面を概念化して、そこに「こうなりたい」という理想の形を思い描くからだ。 しかし、あくまでそれは自分を自分の頭でイメージした概念でしかないから、つかみどころのない心の世界に翻弄され、自己不全感は更に強…