霊性が働きかけてくる

 知性の内に向かふ働き、これを知性の内面的論理と云っておけば、この論理は情意的に一つの要請として感ぜられる。多くの場合では、精神の悩みとしての一般の人々に知られている。知性の外向的働きの目覚ましさに眩惑されて、その外に何等の要請を感ぜぬ人、即ち哲学せぬ人、こんな人々に向かって如何に哲学を説いても、河童に水である。また所謂る精神の悩みを覚えぬ人々、即ち宗教意識の持ち上がらぬ人々に向かって、罪悪だの、地獄・極楽だの、永遠の生命だの、解脱だの、證覚だのと云ったとて、これまた馬耳に東風だ。何らの交渉のきっかけがない。縁なき衆生には外から救いの手のつけやうがない。知性に内向的なもののあることは、或いは知性自身からではわからぬものなのであろうか。ここに霊性なるものの働きが出なければならぬのである。霊性に刺激せられて、知性は始めて自らを反省して、内に向かふ力を働かすと云はなければならぬのだろうか。

            「鈴木大拙全集6巻」82pより

 

 霊性が働きかけると云う面白い表現だと思う。

 ある時期になり、普段何も考えて生活をしていなかった人に突然、霊性が働きかける時期がある。すると、今までの人生的価値観が全て夢幻のような、何か満たされない、不安定さが出てくる。その結果、実存的な問いが表れ、「私とは何なのか」、「生きる意味とは何なのか」などの疑問が我知らずに沸き起こってくる。

 この時こそが、本当の意味で、今までの相対的、分別の世界、業の世界と云う色眼鏡が離れ、絶対安心の霊性的世界があると云うことを体験できる時なのだ。だから、苦しみや悩みには必ず意味があって、決して悪いものでもないのである。元来、偉大な人物の中で、苦しみを経験しなかったものがいなかったと云うのはこの理由だ。

 つまり、「一度生まれ」の人と「二度生まれ」の人の間にはその霊性的な深さに決定的な差異が出るのは当然である。ただし、二度生まれになるためには必ず、一度死なないといけないのである。もちろん死ぬとは肉体が死ぬのではなくて、固執してきた我執に気付き、それを葬り去ってから、新しく生まれると云うことである。

 

浄土系思想論 (岩波文庫)

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